silossowski

こんにちはシロソウスキー

Twitter凍結された

沢渡朔の作品を貼ったせいかな。

まあこれだけ凍結騒ぎになっているTwitterで、ひょっとしたら規約違反と判断されるかもしれない写真を貼ったのだから、「凍結されたら、それはそれでしょうがない」という気持ちがあったのかも。

そんなこともあり、凍結に気づいた当初も「ああ、来たか」と落ち着いていた。 凍結された人からよく語られるように、凍結されてもpostできないだけで、タイムラインは更新されるし、fav通知とかも来る。

数時間後、やがてタイムラインが更新されなくなった。 そうするとなんだか急に寂しくなってきて、

地元でブラック労働で死にそうになってて、本当にまずい状態になりつつなんとか仕事辞めて(なかなか辞めさせてくれなかった)、Twitterでつながりのあった東京の仲間たちに支えられながら東京に出てきて、慣れない東京で職業訓練して…、みたいなことを思い出したりした。

雑記 - まず家事をやりたい

生活において、たとえば布団を干してないとか、布団カバー洗濯してないとか、洗濯物たまってるとか、掃除機かけてないとか、床を雑巾掛けしてないとか、便所を洗ってないとか、風呂を洗ってないとか、食器や流し台を洗ってないとか、そういう後回しにしていることが個人差あるにしても多少なりともあったりして、そういうのが豊かな自己表現や思索とか、散歩や小旅行みたいなレジャーとか、趣味と実益を兼ねた工作や勉強とか、そういうものを全部阻害している感があり、一旦休みをとってその辺の溜まった後回しのタスクを一旦片付けてしまいたい。 しかし、そういうタスクを消化できるような、まとまった休みを取れる機会というのは、一年通して見てもわずかであるし、もっと言うと仕事を一旦やめなければそういう時間が取れそうにない場合だってある。

これのパフォーマンスを上げるには、極めて自閉的になり、身の回りを神経質なまでに清潔に整えまくるか、もしくは「掃除や洗濯しなくても気にしない」というスタンスをとって汚しまくるかみたいな極端な選択をしていくことになる。自分ルールを制定して、厳格にそれを適用していくというスタイルである。

一方、誰かと同居していて、その片方の人間が家事を効率よくサクサクこなせるタイプの人間だったりすると、それに引っ張られて、極端にならず、いいバランスで家事をこなせるようになったりする。 他者の目が適度にあると、なにかとバランスが取りやすくなるというものだ。

そこでわたしが御提案したいのは、「家事キャス配信」である。「キャス」と称してみたけど、periscope配信でも問題ない。 掃除や家事も、それを配信すると、いい具合に人の目があるから、途中でだらけたり、サボったりしづらく、配信時間の都合もあるから自然と効率的に家事をこなすようになるのだ。 実際これは自分自身やったことがあり、なかなかいいパフォーマンスを発揮できた。承認欲求も満たせるかもしれない。

しかしながら弱点もあり、一人暮らしする人間の家は大体クソ狭いので、ゴチャゴチャとものが多くて絵面が汚くなりがちである。汚い絵面は、人間の生理的嫌悪を喚起させやすく、なんだかそこに住む人間も薄気味悪く感じてきたりするかもしれない。

お料理配信みたいなのも良さそうだけど、果たして人にお見せ出来るような台所だろうか…。そういう問題になってくるが、やってみる価値はあると思う。

家事や色んな気の進まない作業を配信して、コンテンツ化する。これは一種のリサイクルでありエコではないだろうか。ゴミ焼却炉の熱を利用した温水プールで泳ぐ女児を想像すると、何だかひどく興奮する。

ケーキを食べることよりもむしろ買うことが趣味

もともと甘いものはわりと好きなのだけど、貧乏性が身についているので、ケーキを食べることは、たとえば誕生日とかクリスマスとか、あとは風邪やら病気のときとか、そういう特別なときに限られていて、日常でケーキを食べるとバチが当たるのではないかとすら思っているようなフシがあります。

しかしながら、世の中の人たちみんながそんな程度しかケーキを食べないのであれば、ケーキ屋さんは当然食っていかれないわけであり、ケーキはもっと日常から買って食べてもいいものなのではないかと、大人の自分が論理的に考えた結果、そのような理路整然とした答えが出ましたので、そのようにしています。

きっかけとしては、人物から「クリスマスなのでホールケーキを買おう」と提案され、「いや、それならばショートケーキを数種類買ったほうが、安いし量も適切だし、色んなものも食べられるし良いのでは」と返答し、実際そのようにしたのですが、たしか5個だか6個だか買って2000円もしなかったので、「意外と高価くはないものなのだな」と思って、それ以来ケーキをたまに買うようになったのです。

ケーキをたまに買うようになり、少量買って自分で食べるということもあるはあるのだけれど、むしろ人の家に遊びに行くときとか、おみやげとしてケーキを買う機会が多くなり、それは「自分ひとりのためだけにケーキを買うのが何だか少し後ろめたい」みたいな気持ちがまだ完全には捨てきれず、しかも自分用だと少量しか買わないので、何だか店のひとに悪いのもあるというか、店のひとに「うだつの上がらないチョンガー( * )なのに、自分用に1個だけケーキ買うんだ(笑)」みたいに思われるんじゃないかみたいな気持ちもあって(なので、たまに買うときはそんな要らないのに複数個買ったりして、「いや、妻がね、ここのケーキが好きでね」みたいな顔をする)、結局やはり自分用にはケーキって少し買いにくいので、ひとの家にお邪魔するときのお土産を口実にケーキを買って、自分も食べようという気持ちがあるのですよね。
* 注釈:死語です、各自ググってください

もちろん普段から自分用に少量買って、味を確かめて、そのうえでひとへのお土産や進物にするというのは真っ当な行動なので、普段から自分用に少量買うというのは後ろめたい行動じゃないはずなんだけど。

こうした行動を繰り返すうちに気づいたのが、自分はケーキを食べることというよりも、ケーキを買うことが好きなんじゃないかということでした。

ケーキを買うというのは、生活に華を添えるようなものだと思う。

華を添えるという言い回しがバッチリそのままで、花を買って花瓶に活けて、それを部屋に飾る行動に似ている。

ケーキ屋に行く、ケーキ屋の店内は砂糖とスパイスのにおいに満ちている。ガラスケースを見る、色とりどりのケーキが並んでいる。少し無骨でドッシリとしたものもあれば、フルーツが宝石のように散りばめられている鮮やかなものもある。キウイフルーツババロアとか爽やかな色のものもあれば、名前わかんないけどベリーを使った艶やかな赤色のものもある。チョコレートや栗のなめらかな茶色、いくら見ていても飽きない。花屋の店先に並んだ、いろんな花を見ていたときのマッキー(槇原敬之)もこのような気持ちだったのだろうか。

とかいろんな形容をしまくっていると、時間がかかって店のひとに迷惑ですので、早めに決めてケーキを買うのですが、いつも「はやく決めなきゃ」とおもって迷ってしまって、「なんでこのケーキに決めたんだ?」とあとでいつも謎になってしまうのですが、それはさておき、ケーキはだいたいうまいです。生活に彩りがもたらされます。

なんかキレイなケーキを買ったならば、それを雑には消費したくないというのが人間の情であり、箱から取り出したら、(半額惣菜はいつも容器から直接食うくせに)きちんとお皿に載せて、コーヒーやお茶を淹れて(焼き菓子系だったら洋酒なんかもいいですね)、散らかってるテーブルの上もきれいに片付けて、その様子をスマートフォンで撮影して、インスタ・グラムに投稿して、急げば秒で食べ切れるケーキをゆっくりと丁寧に味わって食べたりするわけです。

そして人の家に遊びに行くときのお土産にしたときなんかは、「このケーキうまいね」みたいな感じになると、自分が作ったものでもないのに、何となく鼻が高くなるというか、嬉しくなるものですよね。

ケーキを人に買っていくとか、ギャルゲーの登場人物のヒロインの美人のお姉さんになったみたいな気持ちにもなりますね。(個人の感想です)

「ケーキを買う」という行動ひとつには、そのような体験がすべて込められており、要するに丁寧な暮らし、美しい生活が付随してくるものなのではないかと思うのです。

いまわたしが住んでいる部屋は狭くて古くて、線路の近くだからうるさいし、電車が通過するたびに家が揺れるし、北西向きで日当たりが悪くて昼間から暗くて寒いし、なんかくせえし、花を飾るような気分になれないというか、置くスペースすら確保できないのだけど、それでもケーキを買って食べることは割とできたりとかするっぽいです。

それでもひとりぼっちでケーキ食べるのは微妙なので、人と会うときに買いたいのだけど。

ともかく、丁寧な暮らしをやっていくために、ケーキを「買って」みてはいかがでしょうかというご提案と、経過のご報告でした。

苗字や名前は変わるかもしれないし、ならばスクリーンネームが本当の名前

本名って、結婚とか養子とか、親族による重大事件事故などによって変わったりするものなのだけど、スクリーンネームというのは自分が変えようと思ったときしか変わらず、そういうことを考えると、そのひとを識別する記号としては、スクリーンネームのほうがむしろ重要でなおかつ自由なものではないだろうか。

人間づきあいに関しても、SNSとかネットで知り合った人間と多く交流しているというひとだってイマドキは少なくないと思うし、わたし自身本名ではなく「シロソウスキー」というスクリーンネームで呼ばれることのほうが多いぐらいだ。

スクリーンネームが重要性を増してくると、今度は同じスクリーンネームである人物との混同を避けることが重要になってきたりとかして、「◯◯村の××」みたいな感じで、呼称にメタ情報的なものがついてくるようになるものと思われる。

しかしそれも識別記号としてはいささか曖昧だし、姓名で言うところのファミリーネームみたいな、家へのロイヤリティやブランドみたいなものも、どうせそのうち含みたくなってくる。

そうなると、いまわさらー(@wasara)がやっているような、「@ワサラー団」というファミリーネームを名乗らせる(ファミリーを増やす)という行動は、本当に先見性を持ったすごいことなのではないかという気がする。

焼鳥のタレ 最高!

つい最近までお花見シーズンでしたが、わたしもお花見に誘われ、お花見スポットまでお花見をしに行きました。

お花見にはやはり食べ物と酒はつきもので、わたしは食べ物を作りたかったので、食べ物を作り、お花見に持っていくことにしました。

まずはソーセージで、業務スーパーでお徳用のソーセージ1kgを買ってきて、これを茹でます。
大量のソーセージを茹でるというのは、なかなか気持ちの良いもので、年に1回はやっておきたいなと思う行動です。 グラグラと煮立つ鍋の中を泳ぐ無数のソーセージたちを見ていると、なんとも言えない征服感というか、理科の実験みたいというか、とにかくワクワクした気持ちになります。 煮立った鍋を火からはずし、ザルにザバーッ!とあけます。
ホカホカと湯気をあげる大量の、ソーセージ!

みなさまにも、レジャーとしての「ソーセージ茹で」をご提案いたします。

ソーセージをパックに詰めたら、こんどはヤキトリです。 お花見といえばヤキトリです。

ヤキトリとは言っても、鶏肉でやろうとすると、カットしたり串を打ったりするのは手間なことだし、鶏肉自体もけして安くはないので、ここは業務スーパーの業務用冷凍肉団子を買ってきます。 業務用冷凍肉団子は500g入って168円なので、とても安くておすすめです。

これを解凍して、やはり串を打つのですが、
鶏肉に比べると串打ちも全然難しくないし、好都合です。
串に打つと、業務用冷凍肉団子は完全に「つくね」の顔をしはじめます。好都合です。

業務用冷凍肉団子はそのまま食べても、それなりに味がついているので悪くはないのですが、タレ味にしたいと思いました。 濃い目の味がついていると、お酒と合うし、タレ味にしたいと思いました。

焼鳥のタレを買った

そこでヤキトリのタレを買おうと思い、ほど近い肉屋に行ってみました。 この肉屋では店頭でヤキトリを売っており、そのタレも40円で販売しています。 40円は安いし、お肉屋さんのヤキトリの味を再現できていいと思いました。

しかし、(こういうことは起こりがちなのだけど)なぜかその日はちょうど臨時休業しており、ヤキトリのタレを買うことができませんでした。 いままで臨時休業しているのなんか、見たことなかったのだけど…。

仕方がないのでスーパーに行き、焼肉のタレとかが置いてあるようなあたりの棚を探しました。
ありました。エバラ焼鳥のタレ。178円。
今回はこちらを採用することにしました。しかし思ったより安いものだな。もっと300~400円ぐらいするものかと。

串打ちした「つくね」をフライパンで焼きます。

両面に軽く焼き色が付いたら、エバラ焼鳥のタレをフライパンに流し入れます。 タレには想像よりずっとトロミがあり、焼鳥屋や肉屋のタレとはずっと違うなと感じました。

また、タレというのは焦げやすいはずなのですが、フライパンの上のエバラ焼鳥のタレは、なかなか焦げる気配もなく、のんびりと調理していても全く焦げませんでした。
やはりプロユースではなく、一般向けに調整された焼鳥のタレといった雰囲気があります。

火にかけていても焦げないから、たっぷりと具材にタレを絡めることができるね!お父さん!

そうしてわたしは「つくね」を完成させることができました。

味は

味見をしてみましたが、甘みが強く、焼鳥のタレというよりは甘ダレといった雰囲気があり、醤油からさは控えめといった印象。 トロミが強くて具材によく絡むわけなので、この醤油からさが適正という感じなのかなと。 あと、レモンの酸味・香りを感じます。

これは焼鳥のタレというよりも、「ヤキトリ丼のアタマ」をつくるのに適正な味かなと感じました。 鶏肉とネギをフライパンで炒めて、ご飯に盛って食べる味というか、そこはやはりエバラ品質というか。
ホイコーローの鶏肉バージョン的に、鶏キャベツ炒めとかにもいいかもしれません。

めしに焼鳥のタレをかけて食うとうまい

めしに焼鳥のタレをかけて食うとうまい。そのままの意味です。 ヤキトリ丼の具無しバージョンを想像していただくと、いまわたしが食べているそれです。

めしに刻みのりを載せて、タレをかけて、ここで贅沢をしたい方は生卵も載せてしまいましょう。 卵黄のみでやると、本当に贅沢です。 ここに刻みねぎとかを載せると、食感にアクセントが出て、さらに贅沢で良いのではないでしょうか。

「肉があると、もっとうまいんだろうな」とかは思います。

調味料はだいたいうまい

世の中の調味料は本当にうまいので驚きます。

たとえば、「買ったことないブランドのソース買ったらめっちゃうまくて、毎日のようにソースに合う食べ物探して食ってる」とか、「処分品になってた麺スープのもと買ったらめっちゃうまくて、麺茹でて食べる機会が激増した」みたいな、いままでの食習慣さえ一変させてしまうような、そのような魅力があります。

調味料を賛美していきましょう。

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いつもと違う店で髪を切れない

いつもと違う店で髪を切れない。

むかしから髪を切るときは地元の駅前の床屋でやってもらっており、他の店で切ってもらうのは浮気するような気がするというのもあるし、仕上がりが不安だというのもあるし、予約もしなきゃいけないし、ほかにも色々あるし、それらが渾然一体となってダルみ成分となって、カラダの中に漬物石を詰められたみたいに、腰がズンと重くなってしまう。

床屋に限らない話ではあるけど、いつもと違うものを選択しなければいけないのは、とてもストレスを感じる。

たとえばシャンプーやらトリートメントみたいな理美容品も、いつもと違うものを選択して、その仕上がりだとか香りだとかが気に入らなかったり、肌との相性がよくなかったら悲しい。

シャンプーやらトリートメントは、なかなか減らない。

肌に合わない場合、アタマが痒くなってたくさんの毛が抜けたりとかするし、とにかくよくない。1回買うと、使い切って買い換えるまで時間がかかるから尚更(体に合わなかったら使用を中止して捨てればいいだけの話なのだけれど、貧乏性のせいで、どうしても我慢して使ってしまう)

そのうちにアタマはどんどんかゆくなり、髪の毛がシャレにならん勢いでスルスル抜けていってしまうのである。

食堂や居酒屋だってそうだ。
注文のルールやら、店員に声をかけるタイミング、会計の方法、そういうものを気にしなければならないのだから、とにかく落ち着かない。

一度行ってしまえば、以降はわりと大丈夫になるのだけど、最初の1回というのはやはり不安が大きいものだ。

特にラーメン屋なんてのは、ルールが難しい。 食券を買うタイミングは並ぶ前か、あとか。レンゲや水はセルフかそうでないか、トッピングについてはどう言えばいいのか。
それに店主が、元相撲取りとかだったりして、怖い人かもしれない。

考えれば考えるほど、落ち着かなくなる。

まるで旅先の、知らない土地の路線バスに乗るみたいなもので、運賃は先払いか後払いか、後ろ乗前降りかどうか、降りるバス停までの所要時間もわからないから、バス停のアナウンスも耳を澄ます必要がある。運賃だってよくわからない。両替が必要かもしれない。信号待ちの間に、運転席横の運賃箱のところまで行って、うまく両替しなければいけない。乗っている最中は片時も落ち着くことができない。助けてくれ! はじめて隣町の日赤病院まで、おばあちゃんのお見舞いに行く小学生か。

これまでは地元に帰省するタイミングで床屋に行って散髪できていたが、ここ最近は帰って床屋に行く機会もなかなか無く、きょうまで来てしまった。 もう前回散髪してから2年近くなってきて、髪は伸び放題で状態も厳しくなってきた。 ストレートパーマも解けて、髪がワッサワッサしてきた。

さすがに髪を切りに行くためだけに地元に帰るなんてこともできず、「最寄り駅名 + 床屋」でgoogle検索する。

美容室より床屋が断然いい。理由は顔剃りがあるから。

「男専門! オシャレな男のサロン」というような床屋が見つかったが、あまりにも「男専門!」を全面に押し出しすぎており、わたしはわたしは女子中学生のような髪型にしたいので、不安をおぼえる。

野球部やサッカー部の男の髪しか切っておらず、ソフトモヒカンしかできないのではないか。

ソフトモヒカンまでではなくとも、サンダー・ホーク(SUPERストリートファイターII)のような髪型にされてしまうのではないか。わたしはアパッチ族ではない。スカルピングもできない。頭蓋骨を使った首飾りもしたことがない。女子中学生のような髪型になれば満足なのに、そうはいかないのか。

そもそも現在だって、28歳のときに行った美容院でやたら短くされてしまって、それがやっと回復したような状況なんだ。あのときは毎日毎日自分の髪を鏡で見てため息ばかりついていた。あんな悩みはもうイヤだ。イヤだ!

人生にはつまづきポイントが多すぎるから、それも軽いと思っていたら、意外と重いつまづきだったりするから、「青豆の温サラダ」にするか「真いかのパプリカソース」にするかで10分ぐらい考え込んでしまう。

それに200円のデカンタワインをつけると、合計400円ぐらいで酒とツマミが座りながらにして飲食できるのだから、サイゼリヤは本当にすごいですね。

サイゼリヤは最高!

いかの丸焼きで酒を三杯も飲みたい

いかの丸焼きで酒を三杯も飲みたい。

いかの丸焼きはやたらと安い。
居酒屋で注文しても200円ぐらいのことが多く、しかも「丸焼き」というだけあって、一個がでかい。

それに、いかというのは食べごたえがある。

一切れを何度も噛めるし、味がする。

しょうゆをかければしょうゆの味がするし、しょうがをつければしょうがの味がする。それになんといっても、いかの味がする。
いかは間違いなく、いかの味がするし、噛むともっといかの味がする。
白くてきれいなタイヤみたいな、いかを何度も噛んで、いかの味を存分に楽しんだところで、酒を飲むのである。

酒は、燗をつけた酒がいい。
燗をつけた酒はおいしいし、寒い日なんかは体が温まるからいいのだけれども、
なんといっても、燗をつけた酒は安いことが多い。

燗をつけた酒が安いのは、よくわからない二級酒を使っていることが多いからだ。
よくわからない二級酒も燗をつければ、あまり味気なさも感じないので、おいしく飲めるのである。 要するに、燗をつけた酒はおいしい、しかも安いということになる。

一杯300円でも、かなり安い部類に入るとおもうけど、できれば250円ぐらいだといいな。

なぜなら250円だと、三杯飲んでも750円だからである。
一杯300円だと、三杯飲むと900円になってしまうことを考えると、三杯飲んで750円というのは、とてもありがたい。

そこにいかの丸焼き200円ぐらいを加算すると、だいたい1000円ぐらいで、いかの丸焼きを食べ、酒を三杯も飲めることになってしまう(なんということだろう)

「せんべろ」が酒飲みの言葉ではなく、おしゃれな人々の、おしゃれな言葉になってしまったいま、わたしたちは蜂起すべきである。サイゼリヤバーミヤン、ほか食券買うタイプの酒場とか、なんだか小綺麗な立ち飲みだかバルだかでせんべろを実践しているメディアのライターたちよ、お前も髪の毛を明るい色に染めてしまったのか。器用に生きやがって、わたしたちはピンクローターのリモコン部に入れたまま忘れてて腐ってしまった単4電池が出す汁を全身にまとったみたいに不器用にしか生きられない。もやしを買うとそのまま冷蔵庫で腐らせてしまう。ユーレカ! わたしはいま神と一体となり日本列島を駆け巡る、わかったぞ!

いかの丸焼きで、酒を三杯飲むとだいたい1000円ぐらいになる!

だれか1000円をわたしに! 単4電池を買ってくるから! ピンクローターに入れる替えの単4電池を買ってくるから! 誰かおれに1000円を、1000円を渡してくれ! 新しい単4電池が欲しいんだ! 誰かおれに1000円を、1000円を渡してくれ! もっと、もっと単4電池が欲しいんだ!

たのむよ。