silossowski

こんにちはシロソウスキー

セックスすること

セックスというか、男の立場から挿入する感覚って、虫や小動物を殺す感情とか、屋根から下がったデカいツララを叩き落とす感覚に近くて、破壊や暴力にとても似ていると感じる。

「すべてのセックスは暴力(レイプ)だ」という主張には本当に納得するし、セックスに際した自分は、その手にナイフを持たされて、「さあ、殺せ!」と命令されている気分になる。やくざやギャングの通過儀礼のようだ。もしくは絞首刑の床が抜けるボタンを押す刑務官か。

人殺しをしたあとの下っ端チンピラや、気弱な刑務官よろしく、その後はその時の様子や感触を思い出しながら、自分は人に取り返しのつかない暴力を振るってしまったと、何ヶ月も何年も苦しむことになる。アルコールにもすがる。

なんだってこんなことをしなければならない世の中に生まれてしまったのか。理解できない野蛮な風習の残る未開の部族の一員として生まれてきてしまった。

これから先、またわたしは人殺しのナイフを手に持たされることがあるだろうか。

それとも、やがて人殺しの快感に取り憑かれ、自ら嬉々としてナイフを手に、獲物を狙う、そのような獣になってしまうのだろうか。

生きているだけで悲しい。

あなたは銭湯で股間を隠す派ですか

「先頭で股間を隠すか隠さないかは地域によって正解が変わるマナーだ」というのをどっかで見たのだけど、自分は全く隠していなくて、全くそんなこと意識していなかったのだけど、股間を隠さないのは(地域によっては)マナー違反になると言われると、「隠さなきゃいけないのかな…」とたじろいでしまうというか、銭湯に行きづらい気持ちになる。 そんなもん見ようと意識しなければ目に入らないし、どうでもいいことじゃんね(いま人生で初めて「じゃんね」と言いました)。

わたしはふだん陰毛を全部剃り落としている状態なのだけど、確かに銭湯でよく見られるのは感じる。 世の中の人びとは通常、他人の股間を気にするものなのか? それとも無毛の股間が見たいの? それなら話はわかる。確かにおれも見たい。

というか、銭湯で股間を見られると、見られている側は思った以上にそれに気付くということだ。 要するに男湯に女児が入ってきたからって、それを見ようとすると女児ないし女児の父に気づかれる可能性は高い。

女児に気づかれるだけならともかく、女児の父親にバレるのはまずいと思う。たぶん。(女児を銭湯に連れて行って、それを凝視する人物を見つけては、娘を性的虐待する仲間として勧誘しようとする父親なら話は別だが。しかし、そのようなことは太平洋上で蝿同士が衝突するような確率でしか起こり得ないだろう。それを信じて生きていくの? 夢を信じててエラい!)

数年前に銭湯内(男湯)で女児を隠し撮りしようとしていた青年が、女児の父に隠し撮りを気づかれ通報されてお縄となった事件があった。 たしか洗顔フォームの容器内部だかにカメラを仕込んでいたという話だっけ。 気づかれるということは、ベストポジションを狙って洗顔フォームの容器を動かしまくっていたか、それとも杜撰な作りの隠しカメラだったのか。

銭湯で女児を撮影なんて、お金儲けが目的でもない限りできないな。めんどくさい。ツイッターでJS裏垢でも探してたほうが、まだ効率がいい。 情欲はコンビニ感覚で満たしたい。

そういえばweb1.0のころよく出回っていた、ディズニーランドのトイレ(と言われているが実際は謎)で盗撮されたという女児の放尿画像は良かったな。 いや、画像そのものより、あの画像をbackground-imageにしてrepeatさせていたホームページが存在しており、それがクールで、とてもインターネットだった。

夏はいつか「あの夏」になってしまうけど、インターネットもいつか「あの夏」になる。そのように思います。

わたしたち、死を意識して生きていきましょうネ。

Twitter凍結された

沢渡朔の作品を貼ったせいかな。

まあこれだけ凍結騒ぎになっているTwitterで、ひょっとしたら規約違反と判断されるかもしれない写真を貼ったのだから、「凍結されたら、それはそれでしょうがない」という気持ちがあったのかも。

そんなこともあり、凍結に気づいた当初も「ああ、来たか」と落ち着いていた。 凍結された人からよく語られるように、凍結されてもpostできないだけで、タイムラインは更新されるし、fav通知とかも来る。

数時間後、やがてタイムラインが更新されなくなった。 そうするとなんだか急に寂しくなってきて、

地元でブラック労働で死にそうになってて、本当にまずい状態になりつつなんとか仕事辞めて(なかなか辞めさせてくれなかった)、Twitterでつながりのあった東京の仲間たちに支えられながら東京に出てきて、慣れない東京で職業訓練して…、みたいなことを思い出したりした。

雑記 - まず家事をやりたい

生活において、たとえば布団を干してないとか、布団カバー洗濯してないとか、洗濯物たまってるとか、掃除機かけてないとか、床を雑巾掛けしてないとか、便所を洗ってないとか、風呂を洗ってないとか、食器や流し台を洗ってないとか、そういう後回しにしていることが個人差あるにしても多少なりともあったりして、そういうのが豊かな自己表現や思索とか、散歩や小旅行みたいなレジャーとか、趣味と実益を兼ねた工作や勉強とか、そういうものを全部阻害している感があり、一旦休みをとってその辺の溜まった後回しのタスクを一旦片付けてしまいたい。 しかし、そういうタスクを消化できるような、まとまった休みを取れる機会というのは、一年通して見てもわずかであるし、もっと言うと仕事を一旦やめなければそういう時間が取れそうにない場合だってある。

これのパフォーマンスを上げるには、極めて自閉的になり、身の回りを神経質なまでに清潔に整えまくるか、もしくは「掃除や洗濯しなくても気にしない」というスタンスをとって汚しまくるかみたいな極端な選択をしていくことになる。自分ルールを制定して、厳格にそれを適用していくというスタイルである。

一方、誰かと同居していて、その片方の人間が家事を効率よくサクサクこなせるタイプの人間だったりすると、それに引っ張られて、極端にならず、いいバランスで家事をこなせるようになったりする。 他者の目が適度にあると、なにかとバランスが取りやすくなるというものだ。

そこでわたしが御提案したいのは、「家事キャス配信」である。「キャス」と称してみたけど、periscope配信でも問題ない。 掃除や家事も、それを配信すると、いい具合に人の目があるから、途中でだらけたり、サボったりしづらく、配信時間の都合もあるから自然と効率的に家事をこなすようになるのだ。 実際これは自分自身やったことがあり、なかなかいいパフォーマンスを発揮できた。承認欲求も満たせるかもしれない。

しかしながら弱点もあり、一人暮らしする人間の家は大体クソ狭いので、ゴチャゴチャとものが多くて絵面が汚くなりがちである。汚い絵面は、人間の生理的嫌悪を喚起させやすく、なんだかそこに住む人間も薄気味悪く感じてきたりするかもしれない。

お料理配信みたいなのも良さそうだけど、果たして人にお見せ出来るような台所だろうか…。そういう問題になってくるが、やってみる価値はあると思う。

家事や色んな気の進まない作業を配信して、コンテンツ化する。これは一種のリサイクルでありエコではないだろうか。ゴミ焼却炉の熱を利用した温水プールで泳ぐ女児を想像すると、何だかひどく興奮する。

ケーキを食べることよりもむしろ買うことが趣味

もともと甘いものはわりと好きなのだけど、貧乏性が身についているので、ケーキを食べることは、たとえば誕生日とかクリスマスとか、あとは風邪やら病気のときとか、そういう特別なときに限られていて、日常でケーキを食べるとバチが当たるのではないかとすら思っているようなフシがあります。

しかしながら、世の中の人たちみんながそんな程度しかケーキを食べないのであれば、ケーキ屋さんは当然食っていかれないわけであり、ケーキはもっと日常から買って食べてもいいものなのではないかと、大人の自分が論理的に考えた結果、そのような理路整然とした答えが出ましたので、そのようにしています。

きっかけとしては、人物から「クリスマスなのでホールケーキを買おう」と提案され、「いや、それならばショートケーキを数種類買ったほうが、安いし量も適切だし、色んなものも食べられるし良いのでは」と返答し、実際そのようにしたのですが、たしか5個だか6個だか買って2000円もしなかったので、「意外と高価くはないものなのだな」と思って、それ以来ケーキをたまに買うようになったのです。

ケーキをたまに買うようになり、少量買って自分で食べるということもあるはあるのだけれど、むしろ人の家に遊びに行くときとか、おみやげとしてケーキを買う機会が多くなり、それは「自分ひとりのためだけにケーキを買うのが何だか少し後ろめたい」みたいな気持ちがまだ完全には捨てきれず、しかも自分用だと少量しか買わないので、何だか店のひとに悪いのもあるというか、店のひとに「うだつの上がらないチョンガー( * )なのに、自分用に1個だけケーキ買うんだ(笑)」みたいに思われるんじゃないかみたいな気持ちもあって(なので、たまに買うときはそんな要らないのに複数個買ったりして、「いや、妻がね、ここのケーキが好きでね」みたいな顔をする)、結局やはり自分用にはケーキって少し買いにくいので、ひとの家にお邪魔するときのお土産を口実にケーキを買って、自分も食べようという気持ちがあるのですよね。
* 注釈:死語です、各自ググってください

もちろん普段から自分用に少量買って、味を確かめて、そのうえでひとへのお土産や進物にするというのは真っ当な行動なので、普段から自分用に少量買うというのは後ろめたい行動じゃないはずなんだけど。

こうした行動を繰り返すうちに気づいたのが、自分はケーキを食べることというよりも、ケーキを買うことが好きなんじゃないかということでした。

ケーキを買うというのは、生活に華を添えるようなものだと思う。

華を添えるという言い回しがバッチリそのままで、花を買って花瓶に活けて、それを部屋に飾る行動に似ている。

ケーキ屋に行く、ケーキ屋の店内は砂糖とスパイスのにおいに満ちている。ガラスケースを見る、色とりどりのケーキが並んでいる。少し無骨でドッシリとしたものもあれば、フルーツが宝石のように散りばめられている鮮やかなものもある。キウイフルーツババロアとか爽やかな色のものもあれば、名前わかんないけどベリーを使った艶やかな赤色のものもある。チョコレートや栗のなめらかな茶色、いくら見ていても飽きない。花屋の店先に並んだ、いろんな花を見ていたときのマッキー(槇原敬之)もこのような気持ちだったのだろうか。

とかいろんな形容をしまくっていると、時間がかかって店のひとに迷惑ですので、早めに決めてケーキを買うのですが、いつも「はやく決めなきゃ」とおもって迷ってしまって、「なんでこのケーキに決めたんだ?」とあとでいつも謎になってしまうのですが、それはさておき、ケーキはだいたいうまいです。生活に彩りがもたらされます。

なんかキレイなケーキを買ったならば、それを雑には消費したくないというのが人間の情であり、箱から取り出したら、(半額惣菜はいつも容器から直接食うくせに)きちんとお皿に載せて、コーヒーやお茶を淹れて(焼き菓子系だったら洋酒なんかもいいですね)、散らかってるテーブルの上もきれいに片付けて、その様子をスマートフォンで撮影して、インスタ・グラムに投稿して、急げば秒で食べ切れるケーキをゆっくりと丁寧に味わって食べたりするわけです。

そして人の家に遊びに行くときのお土産にしたときなんかは、「このケーキうまいね」みたいな感じになると、自分が作ったものでもないのに、何となく鼻が高くなるというか、嬉しくなるものですよね。

ケーキを人に買っていくとか、ギャルゲーの登場人物のヒロインの美人のお姉さんになったみたいな気持ちにもなりますね。(個人の感想です)

「ケーキを買う」という行動ひとつには、そのような体験がすべて込められており、要するに丁寧な暮らし、美しい生活が付随してくるものなのではないかと思うのです。

いまわたしが住んでいる部屋は狭くて古くて、線路の近くだからうるさいし、電車が通過するたびに家が揺れるし、北西向きで日当たりが悪くて昼間から暗くて寒いし、なんかくせえし、花を飾るような気分になれないというか、置くスペースすら確保できないのだけど、それでもケーキを買って食べることは割とできたりとかするっぽいです。

それでもひとりぼっちでケーキ食べるのは微妙なので、人と会うときに買いたいのだけど。

ともかく、丁寧な暮らしをやっていくために、ケーキを「買って」みてはいかがでしょうかというご提案と、経過のご報告でした。

苗字や名前は変わるかもしれないし、ならばスクリーンネームが本当の名前

本名って、結婚とか養子とか、親族による重大事件事故などによって変わったりするものなのだけど、スクリーンネームというのは自分が変えようと思ったときしか変わらず、そういうことを考えると、そのひとを識別する記号としては、スクリーンネームのほうがむしろ重要でなおかつ自由なものではないだろうか。

人間づきあいに関しても、SNSとかネットで知り合った人間と多く交流しているというひとだってイマドキは少なくないと思うし、わたし自身本名ではなく「シロソウスキー」というスクリーンネームで呼ばれることのほうが多いぐらいだ。

スクリーンネームが重要性を増してくると、今度は同じスクリーンネームである人物との混同を避けることが重要になってきたりとかして、「◯◯村の××」みたいな感じで、呼称にメタ情報的なものがついてくるようになるものと思われる。

しかしそれも識別記号としてはいささか曖昧だし、姓名で言うところのファミリーネームみたいな、家へのロイヤリティやブランドみたいなものも、どうせそのうち含みたくなってくる。

そうなると、いまわさらー(@wasara)がやっているような、「@ワサラー団」というファミリーネームを名乗らせる(ファミリーを増やす)という行動は、本当に先見性を持ったすごいことなのではないかという気がする。