silossowski

こんにちはシロソウスキー

キャシャーンがやるから自分はやらない

小学校・中学・高校では国語の成績だけは良くって、作文とかも褒められることが多く、「自分には才能があるんだ!」と思っていたし、わたしは(国語以外の)勉強ができなかったし、手先が不器用でスポーツも苦手だったので、「国語が得意」というところにすがって自己を肯定し、承認を得ていた。

それに「変なやつ」みたいな評判も割とあって、良く言えば(あくまで良く言えば、だ)独創的であるみたいな評価がされていたので、自分でも「自分は独創的なんだ!」とも思っていた。

そこに若者らしい中二的な万能感が配合されると、「よっしゃ!自分には才能があるんだ!将来は何らかの文章を書いて生きるぞ!」みたいな発想になったりするし、その方向に進めばまだ良かったのだけど、高校のときに進路を相談した相手がアホだったので、「何らかの文章を書く仕事を将来したい。ジャーナリスト的な」みたいな相談をしたら、「ジャーナリストって言っても色々あるよね。たとえば音楽とか映画とか」と意味もなく濁されつつ詰問され、「書くことが得意なので、人文系がいいんです」「人文系って、就職のとき不利だよ。採用担当に人文学部だと伝えたら、それだけで落とされたし」みたいな就職氷河期を生き抜いてきた人間の屈折したアドバイスばかりを素直に聞いてしまって、わたしは最終的に(「就職に有利」とアドバイスされた)経営学部に進んだのだけど、実際進学してみたら、人文学部がマスコミに就職するためのいろんな勉強や研究や討論会を開いていたりして、それを横目に見つつ、「自分やりたかったのこれなんやけど…」と、高校のとき相談したアホを恨んだ(人文学部に進んだとして上手くいったかどうかはやっぱわかんないんだけど。実際に進学した経営学部では恩師や仲間に恵まれて良い学生生活を送れたと思うし)。 *1

それはそれとして、だ。  
自分には独創性と文章力があると信じていた。

でもいろいろと本を読んだり、いろんな人の考え方に触れるにつれ、自分がなんとなく脳内でモヤモヤと考えていたこと、思っていたことがキチンと言語化・文章化されていて、更にそのうえで、自分が考えていたところよりも一歩、二歩と深く踏み込まれて検討されていたりすることに気づいてしまって、「なんだ、もう十分に研究考察されているんじゃないか」と思ってしまったし、「じゃあもう自分が考える必要はないな」とも思って、それ以上考えることをやめてしまった。 考えることだけでなく、文章そのものの才能についても同様で、すごいセンスと意欲を持って文章に取り組んでいる人や、すごい文章に次々と出会ってしまう。

そうなると自分のできることというのは無くなってしまって、「この人たちに全部おまかせすればいいや。自分がやったってこの人たちの境地には到底たどり着けないのだし」となって、それ以上の何かをやめてしまうのだ。 挫折というよりも、「なあんだ」という気づきというか、自分に才能や能力が無いことを知らされるというか。

とにかく自分よりすごいものを見ると、「なにくそ、やってやるぞ!」という気持ちにはまずならなくて、「ああ、この人におまかせすればいいや(自分はやらなくていいや)」という気持ちになってしまうのである。負けグセのようなものなのかもしれないが。自分がやることによって貢献できることはなくても、下手にやることで足手まといになってしまうだろうという観念が出る。

最近は短歌を再開し始めているのだけど、以前(3年前ぐらいに)サークルを組んでやっていた頃に比べて、よく歌集や入門書、批評などを読むようになった。以前よりもうつ状態が改善して、本を読めるようになってきた影響であろうか。

しかしながら、本を読むと例のやつがやってくるのである。「自分が考えてきたこととか、もう十分に試みられているんだな。なあんだ。じゃあ今から自分がそれをやってみる必要なんてないか」と。

それに、過去に自分が制作した短歌に似た作品も多数目にするようになった。

自分だけのオリジナルであると、独創的でユニークなものだと信じていたことは、決してそんなことはなくて、どこかの誰かも同じことを思って、やはり短歌という形式にして作品にしている。過去にノーヒントで同じような短歌を出せたことに対しては、「自分もやるじゃん」という感じではあるのだけれど、それ以上に「自分がやる必要もないか」という諦めのほうが強い。 誰かが言ってくれるのだから、自分がわざわざ言う必要がない。

なので最近は、なんのひねりもなく、なんの感動もない、ただの自分の感性の薄さをそのまま表出させた短歌を詠んでいます。

凡庸で無個性で、痛々しい自意識ばかり持っていて、変態で、犯罪者予備軍で、社会の病理で、という自分への評価もとんだ思い上がりで、本当に何もなくて、何も爪痕を残せなくて、今からラーメンを食べに行くかどうかも決められず、「かわいそうな自分」に酔うことだけが自分の生き方であるこのおれを、見てくれ。もっと見てくれ! 注目されたいという自意識は恥ずかしながら、ある。

無根拠に承認されたい。

*1:もし高校生とか進路を迷っている若者がこれを読んでいたら言いたいのだけど、進路に関しては学校の進路指導の先生がいちばん信頼できます。たとえば塾とか家庭教師とか通信教育とかの担当講師は、あまりアテにならないことが多いです。彼らの言うことはあくまで「個人の感想」だったりして、様々なバイアスに汚染されているうえに、見ている範囲が狭小だったりします。やはり進路指導を専門にする人の、知識量や考える範囲の広さはバカにできない。進路指導の人がいやだったら、担任や信頼できる好きな先生とかの意見でもいいと思う。